被爆者の声

日高敦子さん

被爆75年を迎えた2020年8月6日、広島市中区でおこなわれた被爆者と市民の交流会で、被爆者を代表して当時9歳だった日高敦子氏(84歳)が、被爆75年目にあたって自身の被爆体験と思いをのべました。以下は、甲状腺ガンによって声帯を摘出した日高氏が、発声補助器を喉に当てながら声を振り絞るようにして語った内容の要旨です。

 

 今日75年目の原爆の日を迎え、核廃絶、戦争と平和について考え、志を共にする若い皆さんとお話ができることを被爆者としてたいへんうれしく思う。

 1945年8月6日、午前8時15分、世界で初めての原子爆弾の投下によって広島の街は一瞬にして焼け野原になった。爆心地あたりの地面の温度は3000度から4000度に達し、人間も馬も黒焦げの炭となり、あまりの熱線の強さに影も形もなく蒸発した人もいたといわれる。

 私たち家族は、8月9日に南観音町から爆心地を縦断して八キロを歩いた。広島を流れる7つの川には、ぱんぱんに膨らんだ遺体が川面を埋め尽くすほど浮かび、焦土のあちこちで魚を焼くように遺体を並べて、焼け残った材木を乗せて重油をかけて焼いていた。あたりには山のように骨が集めてあった。

 袋町の日本銀行前には、路面電車の通りを挟んでトタンを乗せた遺体がずらりと並び、トタンからはみだした顔や足が見えた。馬車の馬に寄りかかるようにおじさんが亡くなっていた。日銀の隣の焼け落ちた空き地には、腕と足が白骨化した黒焦げの死体が積み上げられていた。その無惨な姿と光景を作り出した厳しく無慈悲な仕打ちは、この世の地獄と一口にはいいあらわせず、いまだにこの状態を的確に表現する言葉がみつからない。現世の悪人が死後に苦しみを受ける場所が地獄だというなら、原爆で亡くなった幼い子どもや、中学生、女学生になったばかりの少年少女たちにどんな罪があったというのか? 生き残った子どもたちも家族を失って戦災孤児となり、数々の不幸な運命をたどらざるを得なかった。おいしい食べ物もきれいな洋服も知ることなく、苦しい生活のなかで一発の原爆で殺された人たちのことを思うといまも胸が痛む。

 当時34歳だった叔母の常子(ときこ)は、4歳の芳江ちゃんと生後6ヶ月の赤ん坊を大切に育てていた。子どもを座敷で遊ばせて洗濯物を干していたとき、芳江ちゃんが「おかあちゃん、早くご飯を食べようよ」といったので、「もうすぐ終わるからね」といって聞かせた瞬間、ピカーという光とドーンという轟音がし、みんな吹き飛ばされ、気がつくと家はぺしゃんこに潰れ、子どもたちは家の下敷きになっていたという。名前を呼ぶと赤ちゃんが二声泣いた。その声を頼りにガレキを掘り起こして手を入れると足に触ったので、脱臼しないように丁寧に頭から引っ張り出した。だが、芳江ちゃんは見つからず、声もしない。そのまま炎が迫ってきてどうすることもできず、赤ちゃんを抱えて一・五キロも離れた牛田の山まで逃げ、竹やぶのなかで二晩過ごした。黒い雨にもあったという。私たちが会ったとき、叔母には額に少し傷があるだけだったが、芳江ちゃんに朝ご飯を食べさせることもできないまま、炎の中に置き去りにしてきたことを叔母はとても悔やんでいた。

 その後、私たちは県北の三次にいる親戚のところへ疎開したが、叔母は盆を過ぎた頃からだんだん身体がだるくなり、髪の毛が抜け、赤紫色の斑点が出るようになり、寝込む日が多くなった。日を追って症状は悪くなり、斑点が全身に広がり、高熱が続いた。熱にうなされながらも我が子にお乳を飲ませようとする姿は、痛々しく涙なしには見られるものではなかった。食事も喉を通らなくなり、ある日「白いご飯が食べたい」といので枕元に持っていくと鷲づかみにして口に入れようとしたが、喉を通ることはなかった。子どものために元気になりたいという思いでいっぱいだったのだと思う。

 「運命だから仕方がない。せめてこの子だけは育てたかった…」と生後7ヶ月の重傷の子どもを気づかう言葉を残し、原爆症で苦しみながら亡くなった。その幼子は奇跡的に助かり、現在は2人の娘の親となり、3人の孫のおじいさんになっている。

 私は65歳で甲状腺ガンになって5回の手術をして、とうとう声を失った。放射線治療はとても苦しい治療で、「よくそんな笑顔でいられますね」といわれるが、暗くなったら谷底へ落ちてしまう。私の戦争はまだ終わっていない。生死の境を彷徨い、今日一日をやっと生きているような気持ちだ。甲状腺ガンは肺に転移しており、内服放射治療も受けた。原爆でガンになったのに、「今度は私が原爆になるのですか?」と先生にいうと、先生は苦笑いしておられた。

 核と人類は共存できない。最近は若い人たちの関心が深まっていることをひしひしと感じる。被爆者の命はまもなく尽きる。どうか語り継いでほしい。私たち市民が雑草のように深く広く根を張り、未来永劫平和を守りましょう。物事を前向きに考え、諦めずに頑張っていけば必ず道は見えてくると信じている。


味埜正明さん

2020年10月25日

 

 昭和20年(1945年)4月14日、3年生から6年生まで46名の児童と先生2人が北広島の光明寺というお寺に疎開した。一人一畳の狭い場所での集団生活が始まり、夜になると親を思って泣いた。楽しみといえば、2、3日に一回地元の人からもらった豆を炒ったものをおやつとしてもらって食べることと、たまにあった家族との面会くらいだった。勉強は学年ごとに集まって自分の教科書をみるくらいで、勉強らしい勉強はほとんどできなかった。食事は麦ご飯が主体で食べる物がなくひもじい思いをした。

 自分は、食べ物を腹一杯食べられない生活が嫌で、母親に泣いて頼んで九州の叔父の家に縁故疎開した。縁故疎開後しばらくして、母親と姉が原爆で亡くなったことを知り、叔父の家の押し入れの中で2日間泣いていた。

 被爆後、北広島のお寺には親が次々に子どもたちを迎えに来たが、七人の子どもたちは原爆

によって誰も迎えに来る人がいなかった。

 被爆後広島へすぐ帰ってきて、中学・高校・大学時代は広島で過ごした。中学校は爆心地の近くの国泰寺中学だった。原爆で焼けて校舎がなかったので、江波の陸軍病院を校舎代わりにして勉強した。江波まで勉強机を運び込んだのを鮮明に覚えている。

 父親は軍に動員されて東京にいたため被爆をまぬがれ、すぐに広島に帰って家族を探した。兄は今の広島大学の工学部の校舎のなかで被爆した。机の下に隠れたが原爆で片眼を失った。上の姉は頭の上に時計がおちてきてケガをしたぐらいですんだが、下の姉と母親は福屋百貨店の前で電車を待っていたときに被爆して2人とも亡くなった。被爆した遺体は広島駅近くの東練兵場で焼かれた。遺骨を探した父親の推測だが、母の遺骨は真っ直ぐだったが,姉の遺骨は曲がっていたので、もしかするとまだ微かに生きていたのに焼かれたのかもしれない。

 6年生が疎開の状況を166日間毎日書き綴った疎開日誌がある。疎開に同行した先生が持って帰っていた。そこには当時の児童の状況や訓練のことなどが記されている。また、自宅の近くに住んでいて一緒に学童疎開した木村靖子さんが当時の状況を書いた『白い町ヒロシマ』という本がある。新藤兼人さんによって映画にもなっている。当時いかに苦しい生活を送っていたかが書いてある。これらの資料や本、映画を見てもらえたらうれしい。

 自分のような経験を若い人や子ども達にさせたくない。インターネットで調べても当時の経験や疎開についての詳しい状況は分からないと思うので、聞いてもらってありがたい。


新澤慶子さん

2020年10月31日「可部と原爆」

 

 私が可部国民学校の1年生になった昭和16年(1941年)の12月8日、大東亜戦争が始まった。はじめのころはシンガポール陥落など日本の戦況はよかったが、戦争が続くなかでだんだんと生活が厳しくなった。

 子どもにとってはまずお菓子がなくなった。お店からキャラメルやあめ玉がなくなり、果物ではバナナがなくなった。南方から入ってこなくなった。おやつは干し柿、サツマイモぐらいしかなかった。子どもにとってはお菓子や甘いものがなくなっていったのが辛かった。食べるものがなく、子どもたちの栄養状態は悪くなった。 着るものも不自由だった。はくものも運動靴がなくなり、くじ引きをしてあたった人がお金を払って旧い靴と交換で買うような状態だった。子どもたちはわら草履をつくってはいていた。 

 学校の教室には軍隊の物資が運び込まれて軍の倉庫になり、兵隊の宿舎にもなった。運動場は、穴を掘って防空壕にしたり、畑にしてサツマイモをうえた。学校が狭くなったので、1、2年生は学校の近くのお寺や神社の広場や建物を利用して勉強し、3、4年生は高松山から薪をとってくる仕事をした。高学年は農家のお手伝いや工場のお手伝いをした。それらは学徒動員と呼ばれた。

 昭和18年8月11日には金属回収令という勅令がだされて、強制的に金物が徴収された。各家庭のなべ、釜、やかん、火鉢、お寺の梵鐘など、鉄や銅でつくられたものが集められた。それらは兵器をつくるために必要だった。燃料として、松の油(油脂)をとった。また、古い松の根を掘り起こして、松根油といって根からも油をとった。近くに油にするための小さな工場があったことを覚えている。

 国民学校の男の先生は戦争へ出ていき、女性の教員が多くなった。国民学校には配属将校がいて、なぎなたや竹槍の訓練、人殺しの訓練をさせられた。もたもたしているとしかられた。毎朝の朝会では、並ぶときに号令をかけて勇ましく並んだ。歌も、低学年は「よい子の住んでいるよい町は、楽しい、楽しい歌の町」という歌をよく歌ったが、小さい声だと叱られ、大声をだして叫ぶように歌うようにいわれた。とても楽しいというようなものではなかった。

 小学校を卒業すると、女子は女学校へ、男子は中学校へすすんだ。可部には中学校がなかったので男子は市内の中学校にはいった。女子は広島県立可部高等女学校(中学校3年、高校1、2年にあたる)へいった。そこから、広の海軍工廠へ106人、海軍航空敞へ40人が飛行機の部品などを作るために働きにいった。

 男子は20歳になると身体検査があり、体格の良い順番に甲、乙、丙と分けられた。丙だと体をもっと鍛えろといわれた。赤紙(召集令状)が来ると、5日ぐらい後には兵隊にならないといけなかった。15、16歳の子どもでも志願して兵隊になったりした。戦争が激しくなると、一度、二度兵隊を経験したお父さんたちにも赤紙が来るようになった。家の中は、おじいさん、おばあさん、子どもだけになり、どの家もさびしくなった。

 昭和20年8月6日は月曜日だった。朝、突然、ピカッ、ドーンとなった。すさまじい音だった。その日は登校日で、私は学校に向かう途中で今の安佐北区役所付近を歩いていた。すぐにイモ畑に飛び込み、とっさに目と耳と口を指で押さえた。これは爆弾で目が飛び出たり、鼓膜が破れたりしないようにするために、毎日の朝会で訓練してきたものだった。見ると、阿武山の上に、モクモクとみたこともない雲がわきあがった。驚いて、学校のことも忘れて家にとんでかえった。家に帰ると、防空壕に入れということだったが、防空壕はすでに人が一杯で、大人から製材所の、のこくずだめの中にいれられた。「あとで迎えにいくから」と言われ、7、8人がその中に入って静かにしていたが、やがて1人、2人といなくなり、私と妹の2人だけになった。それで私たちも家に帰った。

 原爆投下と同時に亀山の福王寺山麓に3つのパラシュートが落ちてきて、爆弾騒動となった。私は直接には見ていないが、その話は可部にも伝わった。パラシュートは報恩寺の近くなど3ヶ所に落ちた。落ちた地点には今、石碑ができている。落ちてきたものは原爆の爆発を無線で知らせるための自動測定器だった。だが、時限爆弾ではないかという話になり、落下地点から1キロ以内の者はすぐに避難せよとなった。牛もひっぱっていくなどの大騒動になった。

 原爆投下からしばらくして、広島から被爆者が軍用トラックにのせられて避難してきた。頭はちりぢりで、手は皮がむけてぼろ切れのようにたれ下がり、その姿は幽霊のようだった。私は、防空監視所で働いていたとても親切だった兵隊さんを介抱した。今のスーパー・サンリブの南側に神社があり、そこに高い大きな木があった。その上にはしごをかけて、防空監視所が作られていた。兵隊さんはそこで被爆し、目からも鼻からも口からも血がでていた。かすかな声で「お母さん!お母さん!」と泣いていて私はびっくりした。その兵隊さんは、私が家に帰ってしばらく後に亡くなったと聞いた。

 家には父が帰っていて、母がおにぎりをつくっていたのを手伝った。父は翌七日の朝早く三時ごろに家を出て広島にむかい、昼前に17歳の昭一お兄さんを連れて帰った。昭一お兄さんは、父の妹の長男で従兄だった。従兄の口は火傷で腫れ上がってまったく様相が変わっていた。「水、水」「熱い、熱い」「痛い、痛い」といっていた。私の家族は両親と2番目の兄と妹の5人家族だったが、市内から疎開してきた人たちで6家族、21人もが同じ家に住んでいた。その人たちの履き物がたくさんおいてある玄関口に毛布で巻かれていたものがあり、なんだろうと思いながらその上を乗り越えたりしていた。それは実は昭一お兄さんの弟の泰男兄さんの遺体だった。泰男兄さんは2日後に焼いた。

 市内から運ばれてきた被爆者は、可部国民学校の南校舎や、品窮寺、勝円寺、超円寺、願船坊などのお寺の本堂に収容された。亡くなった被爆者は消防団の人たちが川辺などで焼いたが、その臭いが本当に嫌な臭いだった。

 8月9日には長崎に原爆が投下され、15日に戦争が終わった。戦後は食べるものがなく、戦時中よりもっと大変だった。そのとき、私は小学校5年生だった。

 

 今は平和だが、この平和はなにもしなければ、99%また戦争がおきる。みんなが仲良くして、努力しないと戦争を防ぐことはできない。


本谷量治さん

2020年6月 第5回オンライン証言会

 

 私は当時17歳で、広島駅西側の大須賀町にある鉄道の印刷工場に15歳の時から勤めていた。8月6日は8時からのラジオ体操が終わって、8時10分ぐらいから各職場にはいってミーティングをしている最中だった。一列に並んで南側にむかって立っていたら、窓から青白い、なんともいえない光が入ってきた。「わっ! なんだろうか」と思っている瞬間に、私は建物の下敷きになったのだと思う。ピカドンというが、私はピカしか覚えていない。音を覚えていない。しばらく気絶していたと思う。気がついて、「助けてくれ!」と叫んだが、誰も助けてくれなかった。自力ではいあがると、朝なのにあたりが薄暗くなっていた。起き上がってみると右目が見えないし、右手もケガをしていた。職場長が気づいて「おまえケガしているじゃないか。すぐに鉄道病院に行け」といわれて鉄道病院に行った。鉄道病院はその当時は広島駅南側の猿猴橋のすぐそばにあった。そこまで行くと、あたり一面がぐちゃぐちゃで、何がなにやら分からないようになっていた。これは治療どころではないということで帰ろうとしたら、病院に来て5分ぐらいしかたっていなかったのに、もう火がでていた。大須賀の踏切までいくと、市内からヤケドした人やケガした人が逃げてきて踏切をわたっていた。私も踏切を渡って逃げたが、そこは東照宮の通りで、左手が騎兵隊の兵舎だった。そこの兵隊がケガをしたりヤケドをしていて「助けてくれ」といわれたが、自分もケガをしているので、それどころではなかった。職場の連中が、機関区がある広島駅北東側の矢賀に診療所を設けているからということで、広島駅北側の二葉山にのぼって山沿いに降りていってそこで右目の治療をしてもらった。右目は目尻のところをガラスで切っていて「1センチずれていたら目がつぶれたぞ」ということだった。薬がなにもないので、手の皮もベロッと剥けていたが、赤チンをつけて包帯をまくだけだった。3人ほど同じ職場の者がいたので、また一緒に大須賀の踏切のところまで帰ってきた。兵隊さんたちが「水をくれ」といっていたが、国防婦人会の人が来ていて、「今水をあげたら死ぬるからあげてはいけない」といわれた。鉄道の印刷工場の者だけが40人ぐらい集まって、その日は二葉山の上にあった鉄道の錬成所にいって一晩すごした。広島市内は火の海でどうにもならなかったので、「これは自分の家もダメだな」と思った。

 その日はそこで寝たが、夜中に空襲警報があり、そのときはみんなでもっと奥の山の中に逃げた。明くる日に炊き出しがあり、握り飯とおしんこと味噌汁をもらった。思えば、6日の原爆のときからそのときまで何も食べていなかった。

 「家に帰れる人は家に帰り、帰れない人は残る」ということになった。私は、己斐に兄がいたので、そこへいってみようと思った。もう一人、朝鮮の人で中島という人がいて一緒にいくことになった。広島駅東側の荒神橋の踏切まで何人かでいった。自分と中島はそこから南下して銀山町の東警察のところでカンパンをもらった。自宅のある薬研堀まで帰ると、隣の家の人がいた。そこの娘さんも行方不明だった。うちの母親と弟は自宅から東方の鶴見橋の方に逃げていったということで、二人は大丈夫だなとわかった。

 それから鷹野橋をすぎて己斐まで逃げていった。己斐の兄の家は、焼けてはいなかったが、爆風で障子が飛ばされていて住みにくかった。それで「廿日市の姉の家にいけ」ということになり、私は廿日市の姉の家まで歩いていった。

 母親と弟は、疎開の作業をしていて、休憩していた時に原爆に遭って家の下敷きになった。だが、天窓があったのでそこからはい出して、鶴見橋まで逃げた。鶴見橋にいったとき、何もしていないのに、胸がムカムカして二人とも嘔吐したそうだ。それから母親の姪がいる海田市まで逃げた。母親と弟とは、廿日市で会うことができた。姉は、元安橋の今のレストハウスで電話の交換手をしていた。姉はその日、友だちと一緒に川づたいを祇園まで裸足で逃げた。祇園の友だちの家に二、三日寝ていたが、廿日市の姉の婿さんが自転車で廿日市に連れて帰った。鼻も口もただれて、髪の毛は抜けかかっていた。トイレに連れていくと血便がでて、それから寝たきりで、17日の朝になくなった。「ものをいわんな」といっていたら、もう亡くなっていた。

 もう一人の弟は、13歳で学校から雑魚場町に建物疎開作業に出ていた。高等科1年だった。母親と二人で8日、9日と本川小学校や広島市役所など収容所や死体置き場を探してまわったが、見つからなかった。それであきらめた。弟を探している途中、川のなかを死んだ人がうつ伏せになったり、上を向いたりして潮の干満に流されていったりきたりしていた。それを救援の人たちが陸にあげ、焼け残りの木材の上に乗せて火葬していた。そうした光景をあちこちの川岸で見かけ、思わず二人で手を合わせた。

 廿日市に帰った母親と弟は身体に紫色の斑点が出て、髪の毛が抜け始めた。ドクダミ草を煎じて飲ませたりしたが、だんだん酷くなった。その後、母親は自分の故郷である芸備線沿いの狩留家に帰ったが、弟とおなじ症状がでた。9月5日に弟がうわごとを言い始めたので5日の晩に狩留家の母親のところに伝えにいったが、弟は6日に、母親は8日になくなった。

 幸いにも、朝鮮に戦争にいっていた二番目の兄が9月6日に釜山から帰ってきた。それで母親の死に目に会うことができた。もう一人いた兄は、8月10日に中国の野病院で病死していた。こうして、広島にいた5人家族のうち、自分だけが生き残った。

 自分は小学校、高等科と皆勤で病気したことがなかった。それが9月10日頃に原因不明の病気になって40度の高熱で一週間ほど寝込んだ。兄と姉と婿さんが「これはだめだ」といっていたが、なんとか今まで生きてきた。健康的に弱って、結核、急性肺炎、胃癌(切って3年目)とやった。当時は、毛が抜けるのではないかとか、身体に斑点がでるのではないかと毎日が不安だった。20歳の時から大阪にいったが、原爆のことは一切話していなかった。原爆手帳をもらったのは、だいぶ後のことだ。手帳をもらうには証人を探すことが必要で、そのために大阪から広島まで行く休みがとれず、昭和53年(1978年)の7月にやっととれた。なんとか90歳まで生きているのは、みんなの代わりに生きているのだと思って、なんとか頑張って、戦争がどういうものか伝えたい。

 自分は、高等科1年の頃から近所の町工場で休みには働いていた。戦争のために働き手が召集されて人手不足だったので工場で働くことになった。鉄道につとめてからも夜学に通っていた。軍関係の印刷があるときは残業があり、だいたい1週間に2日ほど夜11時頃まで働いた。遅いときは午前2時頃までになることもあった。そのために学校に行けなくなるので、一時鉄道をやめたいといったことがある。そうしたら警察に呼び出されて、「戦時徴用令のため、やめるなら炭鉱に送る」といわれた。当時は人手がたりなくて、13歳の弟も建物疎開作業に動員された。食べるものがなくて、ペンペン草や芋づるも食べた。

 戦時中は尾道まで鉄道で買い出しにいった。「欲しがりません、勝つまでは」といって我慢を強いられた。天皇陛下の悪口を言ったら特高警察と憲兵につかまった。今では考えられないが、当時は天皇陛下がきても通り過ぎるまで頭を上げられず、顔をみたこともなかった。

 戦後は、1年たっても「なんで自分だけが生き残っているのか」と思い、最初は情けなくて、陰で泣いていた。8人兄弟だったので、残りの兄弟が3人残っていて助かったが、原爆に遭ったのは自分だけ。あとの兄弟は遭っていない。父親は昭和16年に亡くなっている。他のみんなが若い内に死んでいるので、その分まで自分が生かされているのではないかと思っている。

 家内は3年前になくなった。あのとき自分も一緒に逝った方がよかったのかと思うこともある。2年前に大阪から甥のいる広島にもどった。被爆の体験は去年の8月頃から話し始めた。それまでは家内や甥にも話したことはなかった。

 来月で92歳になる。今の世の中、安倍さんも、トランプさんも、プーチンさんも危ない。いつ核を使うかわからない。なんとか阻止しなければと思う。原爆で人間がうけた傷は100年たっても消えない。核は使ってはならない。トランプさんの息子に原爆症がでたらどうなるか、経験してみたらいいのではないかとさえ思う。原爆をうけたらこうなるのだということを知らせないといけない。これから後の人が戦争や原爆で苦しむことのない世の中にしないといけない。若い人に頑張ってほしい。


吉井容子さん

2021年10月 

 

 私は被爆当時15歳の女学生でした。学校は第二市女(広島市立第二高等女学校)と呼ばれた新しい学校で、翠町の第三国民学校と同じ場所にありました。市女の生徒は広島市内出身者に限られていましたが、第二市女には市外からも生徒が集まっていました。私たちは学校ではなぎなたの練習をしたぐらいでまともに勉強をした覚えがありません。横文字が禁止されて、音楽の授業も「ドレミファソラシド」ではなく、「はにほへといろは」といって習いました。裁縫では古着を再生してモンペの作り方を習いました。

学校にはイモや野菜が植えられていて、食べる物に不自由していました。料理の時間には野外の野菜を使って料理することを習いました。お弁当のご飯はわずかなお米にイモの茎や大根などをまぜたものでおいしいものではありませんでした。おやつもたまにおイモがあるくらいで、とてもひもじい思いをしました。

学生生活は「欲しがりません 勝つまでは」のスローガンのもとに我慢が強いられて、楽しいことはありませんでした。

 

原爆のときは、学徒動員で日本製鋼所の鋳造部の仕事をしていました。広大の学生が指導にきていました。8月6日は仕事が休みで登校日になっていました。

朝7時過ぎに、家があった可部から友人と一緒に電車に乗り、横川まで行きました。横川から宇品行きの電車にのって十日市の電停まで来たときに、空襲警報がなりました。家に帰ろうかと思いましたが、学校に行った方が楽しいから学校に行こうと友人と話し合って、そのまま学校に向かいました。そして、千田町の電停をおりた瞬間でした。ピカッーと光り、その光は金色の閃光のようでした。それから耳がツーンとしたので、目と耳を指で押さえて、地面に伏せました。

 しばらくして立ち上がると、あたりはなんとも表現しようのない、この世でない地獄でした。皆さんが倒れ、馬車の馬が被爆してヒクヒクしていました。人は男か女かわからないような状況で、体の皮膚がたれ下がり、ボロを下げたような格好でした。垂れ下がった皮膚があたらないように、腕を前に広げて歩いていました。私がケガをせずに助かったのは、広島電鉄の建物の陰にいたからでした。

 助かったことがわかると、父や母が大丈夫だろうかと気にかかり、友だちと二人で可部に向かって帰りました。どこが道だかもわからず、電車道に沿って歩いて帰りました。途中、革屋町(紙屋町と袋町のあいだあたり)あたりまで来ると、倒れている人から「お水を下さい! お水をください!」と足をひっぱられ、胸がつまるような思いでした。近くに水道が破裂して水がたまっているところがあったので、その泥水を両手ですくって持っていって飲ませてあげました。ヤケドした人に水を飲ませたら死ぬといわれていましたが、かわいそうで飲ませてあげました。しかし、指のあいだから水がもれて、その人のところにもっていったときには唇をぬらす程度しかあげられませんでした。それでも、何人かがおいしそうに飲んでいました。

 紙屋町をすぎたあたりで、学校の友だちにも会いました。女学校に草津の方から来ておられた人でした。私は誰だかわからなかったのですが、むこうから「小田さん、助けて! 網本です!」といわれて気がつきました。でも、私は自分のことで精一杯でどうしてあげることもできず、その人を残して、後ろめたい気持ちでその場を離れました。その方はあとで亡くなられたそうです。

 十日市から横川をすぎで三滝までくると、竹やぶがありました。そこに被爆した人が寝かされていて、兵隊さんが治療をしたり、カンパンをあげたりしていました。私はそこで治療を手伝いました。そこで日が暮れてきました。すると、B29が手が届きそうな低空で降りてきて、ぐるぐる回っていました。その爆音が耳について恐ろしかったです。いまでも飛行機の音が嫌です。

 電車は可部から古市までしか動いていなかったので、古市まで歩いて行ってそこから電車に乗って可部につきました。可部につくと、父と母が迎えに来てくれていいました。家に帰ると、私が死んだものと思って仏壇にあかりがついていました。私は自分だけが無事に家に帰ることができて、犠牲になった人にすまないという気持ちでいっぱいでした。その気持ちは今でもかわりません。

 私は無傷でしたが、家にもどってから2週間ほどして髪がぬけだし、すっかり丸坊主になってしまいました。それから高熱がでて1週間ほど寝込んで大変でした。でも、なんとか生き延びることができました。その後、千田町の原爆医療施設で乳ガンが見つかり、手術しました。幸いに元気になりましたが、2世である娘も乳ガンになり、3世の孫も最近乳ガンになって退院したばかりです。どうしても原爆による影響を考えないわけにはいきません。

 

 戦後はおしゃれをしたくても着るものがなくて、古着をといて洋服を縫ったり、へちまの水を使ってお化粧水にしたりしました。辛かったのは、あのお嬢さんは原爆にあっているから「うつる」「結婚してはいけない」といわれて、なんどか結婚の話もありましたが、流れたことです。幸い、結婚した主人は中国の方に戦争に出ていて帰ってきた人で、心が広く、私をうけいれてくれました。そのとき私は21歳、主人は26歳でした。1949年5月15日に結婚しました。主人の家の本家では、お嫁入り前の一人娘のお嬢さんが原爆で亡くなっていました。そのお嬢さんは8月5日に疎開先から広島市内に帰ってきたために原爆にあいました。豪華な花嫁衣装がそっくりそのまま疎開先に残っていて、「ぜひ着てやってください」といわれました。私は心苦しかったですが、そのきれいな着物を着せてもらって、真っ白な綿帽子をかぶって結婚式をあげていただきました。

 私が嫁いだ吉井の家は、今本川小学校の校庭になっているところに敷地がありました。そこに被爆後ニワウルシの木の芽がでて、どんどん大きくなっていきました。別名天知らずといわれる木で、私も長女のおむつをほしたり、布団をほしたりするのにお世話になった木です。子どもが小学生のときに、じゃまになるのでその木を切って校庭にするという話がでました。私は学校に訳を話して、その木を残してもらいました。その後、その木は枯れてしまいましたが、今は2世の木がはえています。私はそのご縁で、学校から頼まれて本川小学校の3年生の社会の勉強の時間に体験を話にいきました。5年くらいつづいたと思います。子どもたちから学ばされて、うれしかったです。

 私が人前で被爆体験を話したのは、全国から集まった若い方たちに頼まれて話したのが最初でした。それまでは思い出すのも嫌でしたが、平和のために話しておかないといけない、忘れられてはいけないという気持ちで話しました。そのとき参加者から原爆を落としたアメリカをどう思うかという質問が出ました。私が、原爆で無念に亡くなった人たちのことを思い「うらんでいます」といったところ、「本当の気持ちを話してくれてありがとう」と感謝されました。ずっと憎んでいましたが、今では、核兵器をなくして平和な世の中にするために、アメリカの人とも力をあわせていかないといけないと思っています。原爆は、あとあとまで人を苦しめるものです。核兵器のない平和な世の中にすることを、若い人たちに頼みたいと思います。